nem_re_night’s blog

考察をつらつらと

総合芸術について

私はずっと音楽をやる意味、創作を続ける意味について考えていた。

しかしそれは永遠に見つかることはなかった。

なぜなら、音楽は手段でしかないからである。

それに気づいた時から、私が目指すものは総合芸術である。

 

言葉の空間や音の交わり、視覚的に伝えるもの

全ての目的は自分のうちなる物を形にするため

芸術という言語を使った、言語化である。

 

自分が好きだったものの変遷をたどる。

私を救ってくれたアーティスト、「世界の終わり」

彼らは自身の体験やその圧倒的な想起力による曲が特徴的で、ファンタジーと現実の狭間を繋ぐ語り手である。

世の中へのアンチテーゼをポップな曲調にのせたり、誰もが想像しないような世界を圧倒的な完成度で作り上げてくる。

私にとって彼らこそがアーティストであり、総合芸術に目覚める原点だと気づいた。

 

高校に入り、ロック=正義という環境で自分の好きを否定されながらも新しいロックというものの良さに気づいていく。

奏でられる音は一見単調なように聞こえるが、そのシンプルかつデカい音量が小さい箱の中で響き合いその場にいる人たちの声も一つの楽器として使われるその場もある意味では、総合芸術だったのかもしれない。

そんな中で、「My Hair is Bad」というバンドに出会う。

彼らは、所謂日本の女々しい男に焦点を絞りながらもそれとは対照的な文学的空白のある歌詞で一瞬で有名になった。

また私も、その風景描写を言葉と言葉の空白だけで行うことで、さもあったかのような追体験を生む部分にとても惹かれ、瞬く間にファンになった。

そうやって少しずつ、自分の要素が集まってきた。

 

そして、自分の中でそのピースの最後の一つとなったのが「ヨルシカ」である。

極限までこだわる芸術思考、求めていた完成系を見つけた感動と自身の限界を知る。

文学的な歌詞と、練り上げられた空想世界。

自分的ゴールはここであると何度も考えた。

彼らが作る芸術は、とても美しく儚く時に残酷でまたそれが美しい。

尊敬と嫉妬、純粋に愛せるようになってからは曲が作れなくなっていた。

 

自分を表現し、それが評価されることで喜びを感じていた。そのためにやっていた自分に嫌気がさしたと同時に、それが別のもので埋まったときに自身の中で表現する必要性が消えてしまった。

わからない、はじめたきっかけはもっと綺麗な物であったかもしれない。

 

総合芸術とは、自分の内なるものをあらゆる手段を使って表現することだということ。

これは紛れもない自分の中の定義である。

最近は、誰かの模倣を繰り返してその疑似体験を味わっている。

そんな日々も悪くないと思う。

全ては生という目的の手段であり、その選択はいくつもの間違いを生みだす。

その間違い一つも私を作る要素になる。

 

故に、私は人生という手段を用いて生という総合芸術を表現していこうと思う。